僕らは皆疲れ切っている

りんぼうです。

優しさの欠片も無い人達には分かりそうもない話をします。

 

 

Twitter(X)で誰かを晒す行い

Twitterでよく見かけますよね。家族の愚痴、酷い目に遭った話。

これらが事実を伝えているのなら、等しく省みられるべきだと強く思います。辛い目にあった人間は皆救われて欲しいです。

ただ、もう片方の意見を聞かない限り全体は見えてきません。そして両方の意見をとことんまで詳しく聞かなければなりません。寄り添う気持ちを忘れないよう注意しながらです。

とても悲しいですが、こうした公平な状況を僕は考えつきません。もしあるとすれば裁判とかになるのかな?理想論ということになっちゃうんでしょうか。

ほとんどの場合は安易な同情や思い込みなんかで「なんて悪いやつなんだ」と話に上がった人間を叩きがちです。その人の事情は顧みられる事がありません。投稿主が被害者、話に登場した人が加害者です。

しかし、両方の話を聞く場所を設けてそれぞれの事情を聞けば全く違う側面が見えてくると思います。

勿論、中には本当に投稿主が被害者だったという話もあると思います。その場合は本当に酷い話です。美味しいもの食べたり、誰かに慰められたりして欲しいですね。悪いことを埋め合わせるようにその人に良い事があるといいなと思います。

しかし、本当はお互い様だったり、投稿主の方が悪かったりすることも中にはあると思います。

そうなると投稿主は「自分に責がある状態で相手を晒しあげた人」ということになります。

動画で顔まで晒された人は名誉を著しく損なわれている状態です。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂です。変な人に絡まれた挙句ネットに顔までバラされるわけなのでこれはもう相当良いことが無いと埋め合わせになりません。宝くじとかに当たって欲しいと思います。それでも嫌な記憶は残ってしまうでしょう。悲劇としか言いようがありません。

 

尊ばれる人間性と、それを裏切る現実

本当は正しさなんてどうでも良くて、ただ誰かを気持ちよく叩きのめしたいだけなのかもしれないですね。

僕らは皆、日常に疲れ切っています。あらゆる場所でストレスを覚え、自分を理解してくれない人たちや自分を傷つけてくる人たちに嫌気がさしています。

学校生活、バイト先、職場。人によっては家庭すらストレスの原因という事もあり得るでしょう。

興味のない人間からすれば、僕らは元気に見えるでしょう。何の悩みも無いように見えるでしょう。表面上は。

でも心の中はストレスや恐怖、負い目や憎しみで溢れかえっています。僕らは誰も、真の意味で健康ではないんです。ある日ストレスが限界点を越えて死に至る人が現れたとき、その時周りの人間は「そんな風には見えなかった」と言うんでしょうね。

当人が最後まで苦しんでいたことは誰にも正確に知られることはありません。命を失ってもなお、です。そしてこれは、現代においては珍しくもなんともないことです。

こんなことは間違っています。

 

疲れ切った人は人間性を持ち続ける意味を自ら捨てるのではないでしょうか。

 

誰かへの優しさが付け入る隙とみなされて酷い扱いを受けたり。

人へ優しくした事実を他の誰かが悪意から覆い隠してしまったり。

殴られたくないから、虐められたくないから白を黒と言わされていたり。

 

優しさや思いやりは今なお不変の価値を持つ黄金のはずです。

でも、誰かのためを思って優しさを分け与えた結果が振るわなかったら、人は憤りを覚えます。

 

優しさなんて何の役にも立たない。

正しい行いは厄介者扱いされる第一歩じゃないか。

自分は嘘を言われていたのか?なんで嘘をつくんだ?

 

正しくあれ。人には優しくしろ。嘘はつくな。そう言われて皆育つのに現実はこうです。

 

「適度にルールを破り、人を利用し、適度に嘘をつく」人間が「良い奴」や「仕事のできる奴」だとみなされます。

こんな現実を知れば、尊ばれるべき人間性などどうでも良くなってしまうんじゃないでしょうか。

 

 

最近感じることをそのまま書き綴ってみました。

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