「正しさ」は扱う人間次第

りんぼうです。

ジム行って背筋を鍛えるんですが、ラットプルダウンというマシンを使っています。背筋鍛えられますよ~という説明書きが現地にあるので使用しているマシンは間違っていないはずなんですが、ちゃんと背筋に効いているのかがいまいち分かりません。確かな疲労感はある上「これ以上できない」という感覚はあるのでまあ効いてるか・・・と自分を納得させる日々です。「正しいフォーム」という概念があるくらいなのでまだ自分のフォームも改善点がありそうです。あと重量が一向に上がりません。半年じゃまだ無理かー。

 

 

 

「正しさ」

正しさってありますよね。

のっけからちょっと漠然としすぎですが「こうあるべき」とか「こうであってほしい」とかそういうものを今回は正しさとしています。

正しさは正しく使われれば人を助け、人に配慮できます。善行を行った方が割を食わなかったり、他諸々のバランスが取れる。そういうものだと思います。単にこうあるべきであるという形ではなく、人が不憫な目に合わないための方策であるとも思っています。正しい教育がしっかり施された結果、辛い目には合っても理不尽な目には合わないとか。

正しさは強力な力を持つと思います。正しいことをしていると感じているとき強くなれる感覚があります。普段ならできないようなことができる、そんなパワーを持っていると思います。

正しさは使い手次第です。

 

武器としての「正しさ」

身を守る武器としての正しさ。これは言うに及ばないと思います。

正しい知識を付け、正しい言葉遣いと心根により、世の理不尽に立ち向かうための武器。これが本来あるべき正しさの形の一つだと考えます。いさかいや悪意などを前提とした話なので多少気が滅入るのですが、正しさは人の平和で幸福な生活を守ることのできる強力な武器だと思います。

 

一方、人を攻撃するための正しさ。

結論から言うとそんなものはありません。人を無闇に傷つけてよい理由などこの世のどこにもないと信じています。

私が言うのは、「『正しさ』に似て非なる屁理屈を利用する卑怯な発想」のことです。憎しみそのもののような物言いになりました

具体例をいくつか挙げてみます。

「自ら進んで仕事に取り組み、真面目に働けば誰からも認められるのに、なぜそうしないのか。あいつは仕事のできない奴だ」

「お前と○○君の給料は一緒なんだよ」

「分かるだろ?ちゃんとやれよ」

台詞ではなく、誰が言うでもなく『ダメな奴だ』という流れにされることもあります。結論ありきなのでそこに至る理由は滅茶苦茶で、到底納得なんてできません。

「公正さからはかけ離れた『正しさ』の紛い物」がフィルターとなり、それを通して人を見た結果、彼らの思う正しさが他者に押し付けられます。エゴに他なりません。

「教育も施さず、何も伝えなかった人間が自分の思う通りに動かなかったことに腹を立てる」というあまりにも自業自得な事態すら気に入らない人間の責任になります。「何も教えていないにも関わらず『一定期間働いているのに一向に育たない』ことを以て当人の責任として無責任にも辛く当たる」という正しさからはかけ離れた行いがそこかしこに溢れかえっています。

何も教えてないんだから分からないのは当然です。「教えない」という選択をしたのも自分自身のはずです。自分の中にしかない、自分が思う歪な『正しさ』とやらを人に押し付け、その結果人生そのものを半ば見限る人間が出てきます。二度とこんな思いしたくない。でも社会に出て働かなければならない。

そうした状況の板挟みになって病み、或いは心を凍てつかせることになります。人によっては思い余って・・・ということもあるでしょう。救いの無い話です。

正しさは強力なパワーを持っています。正しさに縛られると言ってよいでしょう。真面目な人ほど、自分に正しさを課します。無責任な他者の適当極まる言い分にもどうにか正しさを見つけ出し、追い詰められてしまいます。

正しさは誰かをぞんざいに扱うために利用されるような道具ではありません。節度と思いやりを持たなければ何の意味も無い概念です。この世には正しさの紛い物があふれかえっています。そんなものに触れ続けるうちに本当の正しささえ見限るようになってしまうでしょう。

 

今回はここまで。自分が思う正しさに逃げ込んだ人間は自分の立場を守るために場を腐らせると思います。「一般的に正しい」ということが人を救うとは限りません。人に寄り添ってこその正しさです。

ではでは。

コメント

タイトルとURLをコピーしました